大手製薬からメンタルヘルス系スタートアップへ「薬だけでは届けられない、想いに寄り添って見えたこと」

2025年1月6日。大鵬薬品工業株式会社(以下、大鵬薬品)の井上大河さんは、例年とは違う仕事始めを迎えていました。向かった先は、本社のある神田ではなく、西新宿のオフィスビル。

そこには個人向けメンタルヘルスアプリ「Awarefy(アウェアファイ)」を提供するベンチャー企業があります。この日から6か月間、井上さんは「レンタル移籍」を通じて、株式会社Awarefyの一員として働くことになりました。
井上さんは半年で何を経験し、どんな視点を手に入れたのか。そして彼の挑戦はAwarefyにどのような影響を及ぼしたのか。井上さんと受け入れ先のAwarefy 代表・小川晋一郎さんにお話を伺いました。
(※本記事は2025年11月に取材したものです)

「どう治すか」ではなく「どう生きたいか」。
薬では届かない想いに寄り添う事業をつくりたい


――レンタル移籍に挑戦しようと思ったきっかけから、聞かせてください。

井上:母ががん治療で大鵬薬品の薬に救われた経験から入社を決めて、抗がん剤を中心とした医療用医薬品のMRとして10年ほど働いてきました。現場では、薬の力だけでは解決できない課題にも多く直面しました。
薬で1日でも長く生きたいと願う患者さんもいれば、治療よりも家族と過ごす時間を大切に思う患者さんもいる。患者さんのさまざまな想いに寄り添える事業をつくりたいと考えていたところ、社長室への異動というチャンスをいただきました。

ただMRの経験しかないので何から始めたらいいのかわからず…。その様子を見た社長からレンタル移籍の話を聞いて、挑戦することにしました。

ーー移籍先はメンタルヘルスアプリを手がけるAwarefyですね。選んだ理由は何でしたか。

井上:大鵬薬品の新規事業開発に活かせる学びが得られることを期待したからです。Awarefyの新規事業はコア事業のアセットを上手く活かしたビジネスモデルで、そこに立ち上げフェーズから携われることに魅力を感じました。

Profile 井上 大河(いのうえ・たいが)さん
大鵬薬品工業株式会社 社長室


2013年大鵬薬品入社。医薬本部で約10年間MR(医薬情報担当者)を経験し、2024年より現職。新規事業探索という役割の中で2025年1月から半年間株式会社Awarefyにレンタル移籍。2026年よりがんに関する社会課題解決に取り組む子会社「アリルジュ」に異動予定。

ーー小川さんは、初めて井上さんと会ったとき、どんな印象を受けましたか。

小川:爽やかなナイスガイが来てくれたなと(笑)。佇まいや話し方にプロフェッショナルさが滲んでいて、営業として確かなキャリアを積んできた方だと感じました。なぜ移籍をしたいのか、目的意識も明確で。受け入れる側として、どういうお仕事をお任せすればいいかイメージがしやすかったです。

ーーどんなお仕事をお任せしたんですか。

小川:福祉リワーク事業の立ち上げです。Awarefyは個人向けのメンタルヘルスアプリで、2020年のリリース以来、主にメンタル不調を経験した方の再発予防のセルフケアツールとしてご利用いただいています。

メンタルの不調を治すには、薬の他に認知行動療法と言われる治療法があります。考え方や行動に働きかける心理療法ですが、精神科では医療保険の仕組み上、診療時間が限られることもあってなかなか提供が難しいんです。カウンセリングという選択肢もありますが、金銭的な負担が大きい。

Awarefyはカウンセリング1〜2回分の価格で、認知行動療法やマインドフルネスなど心理学に基づく機能を搭載し、AIがメンタルヘルスをサポートしています。もちろん非医療機器ですので治療をする訳ではないのですが、再発予防としてセルフケアをされたい方は多く、三次予防の新しい選択肢として、ユーザー数を拡大してきました。

休職者の復職をサポートする環境はまだまだ発展途上ですが、2024年の法改正で、休職者が1割の自己負担で復職支援を受けられる「福祉リワーク」が可能になりました。当社のアプリとも親和性が高いので、福祉リワークの施設を新宿・早稲田にオープンすると決め、立ち上げメンバーとして(井上)大河さんにお願いしました。

Profile 小川晋一郎(おがわ・しんいちろう)さん
株式会社Awarefy 代表取締役CEO


東京大学工学部システム創成学科卒業後、2008年株式会社リクルートへ入社、HRカンパニー (現インディードリクルート) で営業・コンサルタント・データサイエンティストとして事業に従事。 2014年に株式会社ビズリーチに転職し、1人目プロダクトマネージャーとして転職サイト「ビズリーチ」事業に従事した後、新卒採用事業部長として「ビズリーチ・キャンパス」事業を立ち上げる。 2018年より株式会社Awarefy  CEOに就任。

走りながらつくるスタートアップの世界。施設のオープンに間に合うか、ヒリヒリした毎日


ーー井上さんは移籍をして、最初にどんなことを感じましたか。

井上「本当に走りながらつくるんだな」と驚きました(笑)。私が移籍をしたのが2025年1月。2月オープン予定の施設はまだ工事中でした。加えて、利用者の方が具体的にどんな手続きを踏めば1割負担でサービスを受けられるのか、明確な道筋も見えていない状況でした。

小川:僕自身、「本当に間に合うかな?」と思っていましたからね(笑)。
制度上、利用者は自治体に申請して認定を受けるのですが、自治体ごとに微妙に解釈が違う。たとえば新宿区では施設にバリアフリーのトイレが必須、他区はそこまでは問わない…など本当にバラバラで。

井上:とにかく毎日片っ端から電話をかけて確認して、また別の窓口に電話して聞いて……の繰り返し。オープンに間に合うのかというヒリヒリ感は想像以上でした(笑)。

ーーその後、印象的だった仕事はありますか。

井上:集客の大変さを痛感しました。医薬品の場合、患者さんがどこにいるかは見当がつき、アプローチ先も決まっています。でもリワークはターゲットが休職者。勤め先の企業、医療機関、Awarefyのアプリ…どこにアプローチするのが効果的か、手探りの状況でした。

行動して、結果を受けて、翌週はアプローチを変える。1週間単位でPDCAを回していきました。医薬品の営業は半年〜1年単位で戦略を立てていたので、目まぐるしいほどのスピード感でした。

小川:動きながら検証するなかで、医師からの紹介が有効との仮説が立ってきました。そこから大河さんは「今日は⚪︎⚪︎駅に行ってきます」と、界隈の医療機関に飛び込みで開拓してくれました。

ーー飛び込み営業は大鵬薬品でもしていましたか。

井上:もちろんすることもありますが、実態は全く違いました(笑)。大鵬薬品の場合、医師や医療機関とのネットワークもありますし、知名度もあるので名刺を出すとだいたい話を聞いていただけます。実際に取引につながる可能性も高い。外に出てみて初めて、イチから関係を構築することの難しさと、大鵬薬品という後ろ盾のブランド力を痛感しました。

印象的だった変化は「主体性」。最終日は全員が大号泣の送別会に


ーー小川さんから見て、印象に残っているエピソードはありますか。

小川:印象的だったのは、人との「間合いの取り方」。しっかり相手に要求しつつも、決して押しすぎないんです。医師とのコミュニケーションで修行を積んだMRは、こんな風に相手を動かすのかと僕自身も学ばせてもらいました。

ーー井上さんの成長を、どんなところに感じましたか。

小川:一番大きかったのは、主体性の変化です。大手企業ではKPIや目標がしっかり管理され、個人が担うべき役割も明確です。ところがスタートアップは誰かが決めてくれる世界ではなく、自分で決めていく世界。気づいた人が主体的にリーダーシップを発揮して仕事を進める必要があります。

レンタル移籍では、最初の数ヶ月でそのギャップに苦しむ方も多いのですが、大河さんは切り替えが早かった。指示がなくても自ら考えて動くようになっていきました。その様子を見て、集客のリーダーもお任せしました。
予算も限られるシビアな環境で、大河さんが前向きな空気を作ってくれた。シンプルに、助けられたと感じています。

井上:そう言っていただけるのは本当に嬉しいです。

小川:大河さんの送別会は全員大号泣。翌朝5時まで飲んでいるメンバーもいて、「伝説の会」として語り継がれています(笑)。

井上:Awarefyの皆さんは「困っている方の力になりたい」という想いがすごく強い。同じ想いで過ごした半年間は、私にとってもかけがえのない時間でした。

自分はどうしたいのか? 越境で身についた主体性


ーー大鵬薬品に戻って数ヶ月経ちますが、ご自身の変化を感じますか。

井上:主体性は確かに変わったと思います。組織は個人の集合体で、みんなが指示待ちの姿勢では停滞してしまう。正解がないなかで動くことが当たり前の環境を経験して、動きながら改善を繰り返すしかないという感覚が身につきました。

小川:「どうしたらいいですか?」と聞かれたら、答えられる範囲のことは言えます。でも既存事業とは違って新規事業では別に上司が答えを知っているわけではないんですよね。そうなると「自分はどうしたいか?」に尽きる。

既存事業を拡大するのに必要なケイパビリティと、誰も正解がわからない新規事業では必要なケイパビリティが異なるのは当然です。だからこそ一度スタートアップで主体的に動き回る経験をしてみる。その学びには大きな意味があると思います。

井上:本当にそう思います。移籍前は「最終的には上の人が決める」と、どこかで思っていたところがありました。でも今は「自分がやりたいか」を大切にするようになりました。

ーー今後のチャレンジについても聞かせてください。

井上:ちょうど人事発令があって、昨年設立された新会社への異動が決まりました。テーマは、薬では解決できないがんに関する社会課題解決。まさに私が向き合いたかった領域です。Awarefyでの経験をダイレクトに活かせるチャンスをもらったので、しっかり事業の発展に貢献したいです。

小川:それは楽しみですね。お話を聞いていると、当社と近い取り組みもありそうだと感じました。また何かの形でご一緒できたら嬉しいですね。


新しい環境に挑戦し、学び取りにいく姿勢が人を成長させる


ーー改めて、越境の良さをどんなところに感じますか。

井上:マインドの変化に加えて、視座が上がるのは越境の良さだと思います。小川さんが迷いながらも大胆な決断をしていく姿を直近で見てきましたし、大企業なら10年、20年後に担うような役割を、前倒しで体験できた感覚があります。

小川:自分と組織を外から見て、メタ認知できるのは大きいですよね。大企業では当たり前だったスキルに、実は価値があると気づけたり。逆に仕組みに支えられていたことに気づいたり。お膳立てのない環境で、純粋に自分の力を試す経験は財産になるはずです。

受け入れ側としては、越境が期間限定だからこその良さも感じています。終わりが決まっているからこそ、移籍者は覚悟をもって来てくれる。優秀な人材が「この経験を味わい尽くそう」と腕まくりし、普段以上の力でコミットしてくれる。その姿は受け入れ側にもたくさんの気づきと刺激をくれます。

井上:キャップを外して働けるのも大きかったです。外に出て初めて、自分が守られた環境で働いていたことに気がつきました。限られた労働時間をどう使うか。何に力を注ぐか。時間の使い方も主体的になりました。

もちろん、みんながレンタル移籍の機会に恵まれるわけではありません。でも、この経験の本質は「越境」です。人事異動や他部署との関わりだって捉えようによっては越境になる。

新しい環境に挑み、そこで何かを学びとろうとする姿勢。気付きを丁寧に言語化して内省する姿勢。 そして、そのような機会を自分ごととして捉えて向き合う姿勢が、その後の成長につながるのだと思います。

個人が成長すれば、企業も成長する。私自身も成長し続けて、大鵬薬品と患者さんの未来に貢献していきたいです。

Fin

協力:大鵬薬品工業株式会社 / 株式会社Awarefy
文・インタビュー:藤井 恵
撮影:宮本七生

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