「自分にできないことを認めたら、より大きなことができるようになった」 京セラ株式会社 西尾佑太さん

2008年、電子部品・電気機器メーカーの京セラ株式会社に入社した西尾佑太(にしお・ゆうた)さん。大学で機械システム工学を学び、日常に密着した携帯電話などの機器の開発をしたいと思い、入社したそう。

配属されたのは太陽光発電システムの商品開発をする部署でしたが、CADを用いた設計に面白さを感じ、開発の仕事に没頭。その後、プロジェクトリーダーを任されたり、システム設計のためのソフトウェアの開発に携わったり、同じ部署の中で業務の幅を広げながら、10年以上の時が経ちます。
 そのタイミングで、事業部長から提案されたのがベンチャーで働く「レンタル移籍」でした。京セラでは初めての試みで、社内に経験者はいなかったものの、「やってみたい」とすぐに承諾したのです。

2020年1月に移籍したのは、“100年先もつづく、農業を”というビジョンを掲げ、環境負荷の小さな農業に取り組む新規就農者のパートナーとなり、持続可能な社会の実現を目指す株式会社坂ノ途中
ベンチャーでの経験は西尾さんに何をもたらしたのか? 伺っていきます。 

心に響いた「野菜も人も“ブレ”を許容しよう」

 ――西尾さんがベンチャーに行こうと決めたのはどのような理由からですか?

12年間、同じ会社の同じ部署にいると、転職していく同僚を見送ることも何度かあるんですよね。自分も転職しようとはならなかったんですが、もし自分が外の世界に出たら通用するのかな、みたいな思いは頭の隅っこにありました。

 だから、京セラにいながら外の世界で自分を試せるレンタル移籍はチャンスだと思ったんです。ずっと同じ部署にいて、仕事もある程度こなせるようになっていたので、いい刺激にもなるかなって。

 ――思いと合致したんですね。移籍先はどのような指標で決めたのでしょう?

スタートアップに対して何の知識もなかったので、強いこだわりはなかったんです。強いて言うなら、今とは違う業種や職種がいいというくらい。せっかく外に出るなら、全然違うことをしたいなと。

 ――なぜ、数ある中で、坂ノ途中に移籍されたのですか?

代表の小野邦彦さんのインタビュー記事で書かれていた「野菜も人もブレを許容しよう、多様性を大事にしよう」という話にすごく共感して、惹かれました。

メーカーだと、数が売れない製品は販売を継続することはできません。
仕方ないことですが、独自の商品が世の中から消えていくようで、疑問を感じていたんです。その点、坂ノ途中は、生産の少ない珍しい野菜も取り扱うなど、事業の中でも多様性が重視されていて、いいなと思ったんですよね。

移籍前に行われた初回の面談でも、「うちではこういうプロジェクトをしているんだけど、今後どうしていったらいいと思う?」といきなり聞かれて。瞬発力を問われているところも面白さを感じました。

模索した自分なりの「マネジメント」

――2020年1月に坂ノ途中に移籍して、まず任された業務は?

とりあえず、『farmO(ファーモ)』(環境負荷の小さい農業を営む農家さんのペーパーワークを簡略化したり、買い手との接点を提供するウェブサービス)、『海ノ向こうコーヒー』(環境負荷の小さな方法で育てられたコーヒーをアジアの産地からお届けするサービス)のマネジメントっぽいことをしてほしい」と言われました(笑)。具体的に指示をもらうことはなかったんです。

なので自分なりに考えて動くしかなくて。模索しながらですが、人と人・部門と部門の相互理解を促し、考えるためのきっかけや仕組みを作り、最終的には大枠の方向性を示唆することを行なうようになりました。

たとえば「farmO」に関して言えば、チームのメンバーは3人だったのですが、マネージャー兼開発の人と営業の人たちの間に入り、コミュニケーションを促進していくことから始めました。3人と話して、事業がどういう方向に進んでいるのか探りました。

――メンバーのマネジメントやフォローの部分を担ったのですね。

経験もスキルも何もない業種の会社に飛び込んだので、最初はそういうところから入るしかなかったんですよね。京セラでも、人との連携みたいなところは多少やっていたので。

メンバーにヒアリングしたところ、3ヶ月後までにユーザーを一定数増やそうという流れになっていたので、見よう見まねで損益分岐計算をするところから始めました。でも、目標数値を見える化してみたらあまりにも遠くて。そもそも「farmO」をどんなサービスにしたいか、意義や長期目標をみんなで言語化してみたり、それに紐づく成果指標を定義して具体的アクションに落とし込んで、機能開発を進めてみたり、その使い方についてYouTubeでオンライン説明会をしてみたりしていました。

ただ、短期的に成果が出るものではないので、期日までにユーザーを目標値まで増やすことはなかなか難しく、それをふまえて機能開発の方向性を変更するといった意思決定も経験しました。

西尾さん(手前)と、坂ノ途中で働く片山さん(奥)

 「何かひとつでも課題を解決したい」という想い

――以降は、どのように動いていったのでしょう?

「farmO」を利用して社内の業務効率を改善する目的で、農家さんとやり取りをしている生産者窓口の部門も見るようになりました。

「海ノ向こうコーヒー」については、メンバーとコミュニケーションを取りながら、売上目標につながる要素を分解してKPIを設定したり、「これでいいんだろうか」と思いながら、慣れない業務に苦戦していましたね。

ちょうどそのタイミングで、感染症対策の影響で在宅勤務が始まって、メンバーとコミュニケーションが取りづらくなったんです。事業は拡大しているにもかかわらず、自分が貢献できていない気がして、だんだん気持ちが落ちてしまって…。

この頃は、京セラに何かを持って帰らなければ、みたいな意識も大きかったんですよね。そこに対しても何もできていない感覚で、私のレンタル移籍は意味がないのかもと思い始めたら、どんどん落ちていった感じですね。

 ――気持ちを立て直すきっかけやタイミングはありましたか?

小野さんとは月1回2人で話す機会があったんですが、その時に「課題解決の仕方、もっと手を突っ込んだ方が良い」と言われたんです。

その頃、「farmO」と生産者窓口を連携させるイメージはあったものの、いまいち開発が進んでいなくて、加速できていない状態でした。ただ、野菜セットの宅配の需要が伸びて、各部門の業務負担が急増していたこともあって、積極的に「開発を進めよう」と言えない自分がいたんですよね。

そこで、メンバーに任せるだけではなく、自分でもできることをやってみようと、課題を抽出したり、社内のITチームと一緒に作業の優先順位を決めたりしたんです。自分で整理することで、少し開発も進めやすくなりました。

それでも、事業に大きく寄与するものではなかったんですよね。そのモヤモヤを感じていた頃に、小野さんから「法人のオンライン注文も見てほしい」と言われました。

――手がける業務が、また増えたのですね。

そうです(笑)。小野さんも成果を出せるような業務として託してくれたと思うのですが、その時は携わる業務が多いわりに、自分がどんな価値を発揮できているのかわからない状態で。小野さんに話を振られても、明確な成果を出せていないせいで、うまく答えられなかったんです。

そしたら小野さんから、「取り繕い調で話すのはやめよう。西尾は確度85%にならないと発言しないけど、65%に下げて発言しよう」と、言われました。

 小野さんの言う通りで、私は時間をかけて考えるクセがあって。会議でも「こうした方がいいな」と思いつつ、でもどうなるかわからないからと、「こうあるべき」という確度が高い意見でないと、発信できなかったんです。

――自分のクセに気づいたのですね。

大企業だと、社員個人に決裁権があるわけではないし、確度の低いことを言って周りを動かすことが罪だったりするんですよね。そうならないようにしようとしていたな、って感じます。

小野さんの言葉のおかげで、自分が意見することで事業が良い方向に進む可能性があるのだとしたら言った方がいいよな、って思うようになりました。チーム内での発言量を増やしながら、どのタイミングで言うと有効か、考えるようになっていきましたね。

翌月、小野さんから「間違いなく発言は増えた」って、言われました。おかげで法人のオンライン注文の件も、無事、形になりました。メンバーが顧客行脚してくれたことでシステムが一気に導入されて、うれしかったです。

「こうあるべき」から解放されて、より本質的に

ーーお話を伺っていると、本当に様々な案件に携わっていたようですが、西尾さんが自分で立ち上げた案件はあったのでしょうか。

なんとなく成果も出せるようになってきた時に、生産者窓口で起こっていたとある問題に目が向いたんです。野菜セットの需要拡大で野菜が足りなくなってきていました。その原因は、そもそも野菜を確保できていないから。数量を確保するために野菜の買い付け計画である「作付け(さくづけ)」を見直そうという動きが社内でも出ていたので、自分からアイディアを提案して、プロジェクトとして進めていきました。

 ――受け身ではなく、自分から動き出したのですね。

 初めて自分から発信した大きな提案だったと思います。この時期には、京セラに何かを持って帰らねばみたいな意識から、坂ノ途中の事業を大きくしたいという意識に変わっていきました。気持ち的にも、京セラからの移籍者ではなく、坂ノ途中の社員になっていたと思います。

 ――ただ、その頃にはもう移籍期間が終わりに近づいていたとか。

そうなんです。せっかくいい流れができて、形になるかどうかのタイミングで期間終了になりそうだったので、悔しいなと思っていて。小野さんも「いてくれることでみんなの動きも加速するし、やり切った方が西尾としてもええんちゃう?」って言ってくれたので、京セラでも上司に相談し、人事にお願いをして半年間延長しました。

結果的に、作付けに関しては小野さんから「西尾に任せて良かった」と言ってもらえました。

また、延長を決めてからは、作付け以外にも製販連携のようなことや、出荷場の改善、資金調達の場への同席、原価分析と改善、需要予測からの供給量計画、BIツールによる実績の見える化、人事周りなど、本当にいろんなことを経験させてもらい、「COO(最高執行責任者)的なポジションだよね」みたいに言ってもらえたことも、素直にうれしかったですね。 

「確度低くても、発信してみるって大事だな」って。

京セラにいる頃は「こうあるべき」という考えが強くて動けないことも多かったのですが、坂ノ途中に来て、もうちょっと自由になっていいのかな、と思えるようになりました。

その結果として、より本質的に考えられるようになった気がします。

同時期に坂ノ途中に移籍していた、朝日新聞社の植木さん(左)と

――自由になれたんですね。他には何か変化はありましたか?

「自分は何も持っていない、自分には何もできない、自分は何をすべきなのだろう」とずっと葛藤していたのですが、最終的に得られたのは「自分にできることは少ないけれど、意思を持って行動すれば、周りに影響を及ぼすことができる」、というような感覚です。

その結果、「自分自身の成果ってそんなに大きくなくてもいいな」と感じられるようになりました。

きっかけの1つに、農家さんの話があります。
ある農家さんが、「『有機農業』や『有機野菜』が大切なのではなくて、『野菜って美味しいんだ』という気づきを提供することで、結果として農地や森林が守られるかもしれない。多くの方々の自然や環境に対する意識が変わることが何より大切なこと」と話していたんです。小さなことでも想像力を持って挑むことが大事なんだと学びました。

つまり、自分ができることは小さくても、その先、大きくなっていくことを想像できればいいのかなって。そう考えると自分に過度なプレッシャーをかけなくても良くなる。「こうあるべき」って思わなくて良くなるんですよね。

当時を振り返ると、メンターの山口さんが「うん、そうだよね」と私の話を聞いて、否定せずに受け入れてくれたことも有り難かったなと思います。無理に自分のやり方を変えたら納得できず、何も身につかなかった気がして。そこも踏まえて肯定してくれていたのかなと。

それから、それぞれにやりたいことがある人たちの中に身を置いたことで、「みんながやりたいことを上手に結びつけたら、もっと大きな成果になる」という発想も生まれました。

「自分がやりたいことはなんだろう」とずっと考えていたのですが、自分自身の人生を客観的に考え、その流れを読むようになったことで、「皆がやりたいことを実現できる環境をつくること」こそが、自分のやりたいことだとわかったのも大きな気づきでした。

それをぜひ、京セラに戻って、仲間と一緒にできたら。

皆がやりたいことを共に実現できる環境を

――京セラに戻られてからはどんな業務を?

もともといた太陽光発電システム関連の部署ではあるのですが、スマートエナジー事業本部の開発戦略課責任者になりました。製品そのものだけではなく、これからの開発方針の立案をしながら、製造や営業、マーケティングと連携する部門です。

まさに製販連携の部分で、坂ノ途中で経験した数値の見える化や分析が活きています。開発方針も、売上の動向などが見えないと立てようがないので、学んできたことを活かして自分で分析してみようかなと動き出しています。

移籍当初は「これは京セラでは活かせない」「この作業は京セラの事業と遠いな」って雑念がありましたが、それを取っ払って坂ノ途中のために動けるようになってからの方がたくさん経験を積めましたし、今後活かせることも多く学べたように感じています。

――今後は、先程おっしゃっていた「みんながやりたいことを結びつけていくこと」も行っていくのでしょうか?

はい。もちろん市場や自社の状況を見える化して、データドリブンな開発も形にしたいですが、同時にメンバーがやりたい仕事を推進できるような立場にもなりたいと思っています。

最近、開発戦略課には新しい仲間が5人増えたのですが、社内で開催された新規テーマの選考会で、メンバーの提案した企画が選ばれ、事業化に向けて動き出しているんです。

私は共に進めていける立ち位置にいるので、ぜひ、メンバーのやりたいことにしっかり耳を傾けて、それを実現できるよう、動いていきたいですね。

 

自分は外の世界でどう評価されるのか。
その目的を果たすため、レンタル移籍を決めた西尾さん。1年半の経験の中で見えてきたものは、確度を下げて意見を発することと目の前の課題に取り組むことの大切さ。そして、自分ひとりの成果だけに目を向けるのではなく、その先を想像して動くという新たな視点でした。これまでとまったく違う環境に身を置いたからこその発見といえるでしょう。
西尾さんは今後も、皆がやりたいことを実現できる環境をつくるため、さらなる変化を遂げていくに違いありません。

Fin

 

協力:京セラ株式会社 / 株式会社坂ノ途中
インタビュアー:有竹亮介(verb)
写真:其田 有輝也

 

 

 

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